神様への供物や献上品を恭しくのせ、またお正月には鏡餅、お月見には月見団子をのせるものとして、日本人の暮らしに親しまれてきた三宝。銅(台)と折敷から成り、胴の三方に刳り型のあることから、三方の字の当てられることが多いようですが、吉野では宝、これを吉谷良浩さんの暮らす下市では「さんぽう」ではなく「さんぼう」と呼びます。ちなみに一般に刳り型は宝珠の形をしていますが、決まりはないそうです。
この三宝、下市町が発祥といわれます。伝承によると南北朝時代、この地で即位した後醍醐天皇への献上物の器として作られたのが始まりとも。吉谷さんの家は6代に渡って三宝製作を生業としてきました。昭和40年頃までは10件ほどあった製作所も今では4軒。それでも全国シェアの80~90%を占めているというから驚きです。
三宝の材料は良質の吉野檜。吉野杉と同じく人工林で育てられます。人が丹精込めて育てる檜は、木目の縦の線が端正で、色艶がよくて光沢があり、他の地域の檜に比べ色合いの美しさが特徴的。まさに神饌などを供える器にふさわしい品格があります。「檜といっても、丸太を柱にするため製材し、その余った周辺部分の板である背板を使っています」、と吉谷さん。三宝は、資源を有効に利用するという、いにしえからの吉野の精神が生んだもの。このことが林業、材木商、三宝と、それぞれの生業を成り立たせてきました。
三宝の製作に檜が選ばれた大きな理由は、木の持つ粘りけです。粘りのあることで、のこみちを入れた背板は、力を入れずとも美しく曲がります。「課題は木材の不足です。海外から多くの資材が入ってくることで、林業に携わる人も銘木店も激減しました。私のところでは常に1年分ほどは背板をストックしていますが、これからはそれぞれの組合が個別に動くのではなく、共に、活路を見出すべく活動する必要があると痛感しています」。
七代目を継ぐ予定の息子さんは、家具製造を習ったり、積極的に物産展に出向くなど、外部と関わりつつ新しい三宝の可能性を模索している頼もしい存在。「今は、折敷に前菜を並べて出される料亭があったり、若い女性はお気に入りのアクセサリーをのせたり、いろいろな使い方がされているようです。これまでは伝統的に三宝を作っていればよかったですが、これからは刳り型をハートや干支にする遊び心や工夫も必要でしょう。また、もう1本の柱として、曲げの技術を利用した新商品を考える時期かもしれません。けれども芯は芯」、と吉谷さん。「吉野の誇る三宝の本筋はしっかり守りながら、恐れることなく時代のニーズに応えてほしいと思います」、と息子世代へエールを送ります。
時代が移り使い方がさまざまに広がっても、三宝はやはり神聖なもの。神様への畏敬と暮らしを支えてくれた感謝を込めて、吉谷さんは必ず手を清めてから作業に取り掛かります。
古来、森林資源を有効活用
神事やお正月に欠かせぬ三宝
昭和36年、下市町生まれ。明治43年創業、三宝や神具を製作する吉谷木工所の6代目であり、平成29年、大和三宝工業協同組合理事長に就任。趣味はゴルフと読書。