森は、吉野の人々の生業の中心となってきました。ことに、享保年間から明治時代(18世紀前半~19世紀)、吉野林業を代表する主要産業として発展したのが樽丸製造です。樽丸とは、鏡開きに欠かせない酒樽の側板に使われる部材のこと。「吉野林業は樽丸林業ともいわれます」、と話す春増薫さんは、今では川上村に一人となった樽丸職人です。
吉野で搬出し加工された板は、かつて吉野川から筏にのせられ和歌山へ、そして灘や伊丹へ。このとき竹の輪に詰め込んだことから樽丸の名があります。各産地で酒が詰められ、樽廻船は江戸へと。「吉野川が南北ではなく東西に流れていたのも吉野には福音でした」、と春増さん。自然は、山深き吉野の暮らしに恩恵を与えてくれました。
ちなみに樽丸を製作する際、残った端材で作られたのが割箸。吉野では資源を無駄にしないエコな暮らしが実践されてきたのです。
吉野の杉は、「色よし、香りよし、年輪が均一、無節」という樽丸づくりにふさわしい特徴をすべて揃えています。「超密植により日があまり当たらず、枝は枯れて落ち、切り落とすより幹にやさしく、腐りもはいらない。当然節もありません。又、同時に樹高も高く元と末の直径もあまり変わらない木が育ったから、材木ではなく丸太と呼ばれたのでしょう」。この利点と、いうまでもなく優れた職人技が、樽丸製造を支えてきました。たとえば三角に割った丸太をさらに小割にする際は、その木ごとに年輪に沿って割らなければ酒が漏れてしまいます。ちなみに、丸太の中心の赤い部分と周辺の白い部分の境目が、最も高級な樽丸となります。割った板は全体が同じ厚さになるよう精緻に削り、数ヵ月乾燥。そのいずれの工程をおろそかにしても、特産の名にふさわしい酒樽とはなりません。
春増さんが樽丸職人となったのは、意外にも平成9年のこと。本来は15代続く林業の家です。もともとは、天候に左右されがちな山仕事と室内作業である樽丸製作の両立に始まり、職人の少なくなったことから得意先が増えて、求められるままにいつしか樽丸職人としての比重が重くなったといいます。「おそらく昔は、山で伐採し、かつ、削り干すという一連の作業を自分のところでしている人も多かったと思います。吉野ではほとんどの人が、何らかの形で樽丸に関わっていたのでは」。
平成20年、樽丸製作技術は国の無形文化財に指定されました。御多分にもれず後継者不足が課題ですが、春増さんのもとには、技を学んでいる若者がいます。都会から移住し、ゲストハウスを営みながら、冬場に樽丸の製作をしているそうです。「これだけをやれ、というのは難しいかもしれませんが、彼のように何かをしながら樽丸にも関わっていく。そういうスタンスでなら継承される道は決して狭くはないのでは」。それは図らずも春増さんが歩んできた道にほかなりません。
樽丸は酒だけではなく醤油や味噌の貯蔵にも使われ、日本の伝統的食生活を支えてきました。その起点が、ここ吉野なのです。
吉野の生業の中心だった樽丸製造
その伝統を守ることは林業を守ること
昭和24年、川上村生まれ。春亮木材株式会社取締役。平成15年、川上村議会議員選挙で初当選、現在、村議会議長。村の活性化と、樽丸業や林業など村の産業再生に尽力している。