黒滝村は、総面積の97%が森林という森の国。村の人たちは代々、森とともに生きてきました。林業家の中井龍彦さんは、「祖父は山守であり筏師でした」、と話します。山で伐採された杉や檜は、吉野川支流から吉野川本流、紀ノ川から紀伊水道へと。筏師から筏師へ、川から川へと順に渡されました。「このへんは川が小さいので、あらかじめ鉄砲堰を組んでおいて、木を筏に積んだら水門を開いてザーッと流し落としたそうです」。伐採は、昭和30年代初めにチェーンソーが導入されるまではもっぱらのこぎり。「熟練した作業者なら、のこぎりのほうが切断面がきれいで、木を倒したい方向にちゃんと倒せたと聞いています。チェーンソーのように一気に伐採するわけやないですしね」。森には人と木の、いうなら阿吽の呼吸があったのかもしれません。木の集積場のあった場所に残る石仏は、川の安全を祈願した地蔵尊。時を超え、村人の心の拠り所です。
「周囲は森ばかりですが、天然の森に頼るのではなく、先人は人工の森を作り、吉野林業という独自の方法を生み出しました。それはすごいことであり、尊敬すべきこと」、と中井さん。吉野林業の特徴はなんといっても超密植です。日の光を求めて杉はまっすぐに伸び、年輪が密で丈夫。日陰であるため枝は自然に落ち、節ができません。このような特徴は地場産業である樽丸に合わせて工夫された結果であり、吉野林業は樽丸林業ともいわれます。さらに、80年ほどの周期で伐採すると直径は40cm前後に。これは、四斗樽の樽丸にちょうどよい大きさといいます。ちなみに樽丸は、黒滝村の鳥住(とりすみ)が発祥とも、川のない集落ゆえに木を小割にし、川のある集落まで運ぶのは女性や子どもの仕事でした。
多間伐も吉野林業ならでは。「下草の生える頃、林内が暗くなったら間引きのタイミング」。間引きされた木は無駄にされることはありませんでした。植栽から20年ほどの杉は稲を掛ける「はさ」や茶室の垂木、30年~40年なら磨き丸太、50年以上で軒桁や梁、柱、板などに使われるため出荷されました。粘りがあり丈夫な吉野檜も古来、社寺仏閣の建築に重宝され、森は効率よく循環していました。
今、吉野林業は転換期。出荷額の減少もあり、1haに1万本ほど植栽する杉を、3000本にまで減らすよう国から指導されています。「そうなったらもう吉野林業でありませんよね」。中井さん達は、林業に興味を持つ若い世代とともに将来へ向けた取り組みを始めています。たとえば吉野の杉を、木工の匠の多い飛騨高山で家具に加工してもらうのもそのひとつ。そこには柔らかい杉を圧縮する技術があるそう。「日本全国、海外までの展開を見据えています。これからは組合や町村といった枠組みを超えて何かしなくては」。そして中井さんのもうひとつの願いは、「作業班の若者に怪我がないように」。親心がのぞきます。
手間ひまと自然が作り上げた吉野の森
独自の林業に熱き思いを託して
昭和28年、黒滝村大字赤滝生まれ。
平成12年黒滝村森林組合監事就任。
平成21年副組合長就任。趣味は園芸。