吉野は、奈良県南部の吉野川流域を中心とする一帯で、ほぼ大半を森林が占めています。人々は恵み多い森や清流に親しみ、連綿と暮らしをいとなんできました。その歴史は神話や伝説に遡り、万葉集にも数多くの歌が残されています。吉野は神々が坐す神域としても崇敬を集め、修験道の聖地として、また庶民から権力者までが足を運ぶ地でもありました。歴史の痕跡と雄大な自然が共存し、人々のいとなみが続く森の国、吉野は日本人のこころのよりどころでもあります。
古代から続く森
吉野地域に古代から広がる天然の森は、多雨に恵まれ、多様な植物が密生していました。そのため木々は他の地域よりも長い時間をかけて大きく成長し、細やかで均一な年輪と強靭な性質に育ちました。中世までは、山や森に坐す神仏を祭祀する寺社造営に限って伐採されていました。
植林・造林の始まり
植林最古の記録は室町後期の川上村に残っており、今も樹齢約400年の森が川上村下多古地区にあります。戦国期になると近畿各地で城や寺社の建築が増え、吉野の森林資源は用材として需要が高まりました。河川を開削した流路改修などもこの時期に行われ、天然林を守るために建築材として価値の高い杉や桧の植林が活発になりました。
日本林業の発展に貢献
江戸中期になると灘や伊丹の酒輸送用の樽をつくるため、吉野地方の木材の需要が増えました。海上輸送にも耐えられる品質を求めて植林・育林方法に工夫がなされ「密植」や「多間伐」などの技術が生まれ、80年から100年以上かけて育てる「長伐期(ちょうばっき)」施業という独自の技術が生まれました。吉野材は品質が良いだけでなく、美林という景観も生み出したのです。
吉野地域では人工林を広げるだけでなく、天然の森もあえて野趣溢れるままに保存・維持しています。それは、ここに暮らす人々が山や森を神仏坐す地として尊崇し、「信仰」の対象として大切に守り続けているからでもあります。山や峰、そして湧き出る清流まで、山の恵みのすべてに神が宿る聖地として、古くから皇室や摂関家などが詣でるなど、その「信仰」の足跡は点在する祠や寺社にもあらわれています。
山の神の信仰
日本古代の人々は自然の中に神を見て、住み着いた土地の秀麗な山を神と崇めました。吉野の山の神は、地域ごとに様々な形態があるのですが、構成する町村のほぼ全地域にそれぞれ祀られています。その供え物も多種多様にわたり、山の神がイノコや弁天信仰と習合している地域もあります。
吉野水分神社
吉野では天然林・人工林ともに豊かな水によって支えられていました。この豊かな水を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主神とし、みくまりが“御子守”となまって、俗に子守さんと呼ばれ子宝の神として古来より信仰されています。社殿は慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が再建したもの。
丹生の太古踊り
伝承によると丹生地区の太古踊りの由緒は昔、大干ばつに困った村人が丹生川上神社に雨ごいしたところ、願いがかない、喜びのあまり踊り回ったことが始まりといわれています。現在後世に伝えようと、保存会の方々が「道引き踊り」「太古踊り」「大獅子舞」などの練習を重ねています。
人々は、古来より森と共に生き、森に生かされてきました。急峻な地形の中で建物を工夫し、森の恵みを活かした食を編み出し、鮮度を保つ工夫を行い、生業とする技術を発達させてきました。その知恵と工夫は、江戸時代には日本の物流に貢献し、例えば割箸は、外食文化の発展に寄与するなど、産業を支え、「暮らし」の中に息づき、訪れる人に独自の文化に出会う楽しさを体感させてくれます。
朴の葉寿司
旧5月の節句(6月5日)のごちそうとして、握った米の上に生鯖の切り身をのせ、これを朴の葉で包んだものが起源となっています。朴の葉のすがすがしい森の香りがし、防腐作用によって日持ちが可能となっています。
柿の葉寿司
柿の葉でひとくち大のさば寿司を包んで押した夏祭りのごちそうです。塩鯖を三枚におろし、薄くそいだ切り身を一口大に握った酢飯にのせて、柿の葉で包んで押しをかけた寿司です。葉は、タンニンが多く緑色があざやかな渋柿の葉が使われます。
春まなのめはり寿司
高菜や春まなの漬物で温かいご飯を包んだおむすび。春まなは下北山村の気候でしか栽培できない野菜と言われています。名前の由来は、「目を見張って大きいおにぎりに大口を開けてかぶりつくから」などと言われます。